MCCと衛藤公彦〜衛藤さんを偲ぶ〜

 私(安田)の住んでいる町田市に小さな有限会社があるが、今年の夏7月に四期目の決算期をを迎え、エム・シー・シーを略称してMCCと言っている。
実はこの会社は去年8月にガンで急逝された衛藤公彦さんが設立された会社で、元萬年社の古い版権を扱うことを主目的に萬年社が倒産(1999/4/25)した直後にスタートし現在は私が代表となっているのである。

 振り返ってみれば、萬年社がまだまだ元気だった1972年から76年にかけては、「月光仮面』「ワイルド7」「レインボーマン」(以上72年)「ファイーアマン」
「流星人間ゾーン」「デイズニーぱれーど」「ダイアモンドアイ」(以上73年)「ストラダ5」「破裏拳ポリマー」(以上74年)「まんが日本昔ばなし」(75年)「アステカイザー」(76年)と面白い作品が立て続けにテレビ放映されている。萬年社のスタッフとして上記の全ての作品に衛藤さんはプロデユーサーとして関与されているが、テレビアニメ創成時「鉄腕アトム」を世に問い大ヒットを飛ばした経緯から考えれば当然の流れではあったと思う。

 一見華やかに見える広告代理店業界の栄枯盛衰は激しく、萬年社はその後急速に力を失い倒産に至るのであるが、同社の花の時代に上記のような多くの諸作品の創出に腕を振るうことができた衛藤さんは、サラリーマンとしては非常に幸せな方ではなかったろうか。

 さてその衛藤さんとの付き合いのスタートは私の商社マン時代1年間だったが萬年社に出向したことから始まっている。

 バブルの最後のあだ花がまだ咲いていた頃、通産省が音頭をとって設立された日本イベント産業協会に出向していた私は、萬年社への出向予定第一候補者が急に都合悪くなって代替的に同社への出向を突然命ぜられたのであった。

経営不振が続いていた萬年社は、素人の商社マン一人がどうがんばっても立て直すことなど所詮は無理な話であったが、
この時培われた衛藤さんをはじめとする萬年社の人脈が、その後伊藤忠を退社してただの人になった自分に大きな意味を持ってくるなどそのときは想像もしていなかった。
 
 その萬年社を定年退職された衛藤さんは悠々自適の引退生活を良しとせず、自分がかって手掛けた上記諸作品の許諾権(例えばビデオ化権やテレビ用番組販売)ビジネスを、プロデユーサー&契約のプロとして萬年社と契約し、同社の顧問的な立場で最初は動いておられた。

 処理件数も少ないこの種ビジネスは時間だけは結構自由になるので、5時半過ぎともなれば衛藤さんは日頃から大好きな麻雀の卓を囲まれるのが常であった。私もその主要なメンバーであったことをここで白状しておく。
ニコニコとパイをもてあそんでおられた衛藤さんの笑顔は今でも昨日のように目に浮かぶが、その麻雀にはいくつかの特徴があった。
まず結論的になるが彼はそれほど強くなかった、即ち皆から愛される雀士であったことが指摘されよう。
しかも支払いは月末きちんと清算をされるので、腕に覚えのある仲間からは衛藤さんのプレーがちょっと遅いなどという欠点があっても、まさに可愛がられた。

 衛藤さんの萬年社時代のエピソードに、麻雀の約束をダブルブッキングしてしまわれてさすがに皆からブーイングを受けたとか、せっかく成田の自宅まで帰って来たのに呼び出しを受けて又都心に引き返したとか、あまりにもゲームに熱中して深夜になり車上ドロに見事やられてしまったなど面白い話がいっぱい残っている。

 総じて言うなれば、麻雀ではいつまでたっても脇の甘い素人の趣味の域を出なかったのではなかろうか。

 衛藤さんの車好きは有名で、晩年はサラリーマン時代から次々と乗り換えてこられたベンツ車を、あたかも移動事務所のように使いこなしておられた。
通常ならば誰もが頭を痛める駐車スペースの問題が、衛藤さんの場合10数年前に起こした大事故のおかげ(?)で解消してしまった。
事故後の診断結果として重度身体障害者としての指定を受けられたからである。
 与えられた認可証でどこへでも駐車できるようになったからさあ大変、銀座中の道路脇がある程度の時間ならば全て摘発の心配なく駐車可能となったのである。まさに鬼が金棒を与えられたたような有り様となり事故一発が随分と仕事に遊びに貢献することになったのであった。

 話がそれてしまったが、ビジネスへの対応はさすがに凄腕で海千山千の業界さらには社内のまとめ役として見事にその職責を果たされている。
既述のように萬年社はあっけなく倒産してしまい、同社のサラリーマンの多くは自分の再就職のことで手いっぱいだったのに、衛藤さんはいち早く管財人に掛け合って、既述のような諸タイトルの権利保有を認証してもらい、許諾権ビジネスのスタートをはかられたのは見事としか言い様がない。
昨今はテレビも多チャンネル化の方向でコンテンツ不足が話題になっているが、自分のやっていた仕事の延長線上にあったとは言え、この素早い対応によって萬年社の諸作品の散逸は一応防がれたのである。

 その衛藤さんの後ろにくっついて私もこの業界でいつかはビジネスを・・・とがんばったのであるが具体的な成果はなかなか得られなかった。
ところが衛藤さんが亡くなられて、MCCが継承していた諸作品の権利を誰が引受けるかと衛藤未亡人を含む関係者が昨年の秋に相談したことがあったが、その場の結論として当初からMCCに出資もしていた安田が、その継承と整理を引受けることになったのである。

 言うならば他に適任者が居らずやや消去法的になされた決定ではあったが、その後半年を経てほぼ挨拶も整理も完了し,成約はないものの業務は通常に流れはじめた。
このような衛藤さんを偲ぶ文章もやっと落ち着いて書けるようになった訳である。通夜の席で誰かが”又名物男が一人居なくなりましたなあ”と慨嘆していたが一つの時代を駆け足で生き抜いた衛藤さんのご冥福を改めて祈りたい。

 又引き受けたMCCの継承諸タイトルに関しては、自分に衛藤さんのような経験があるわけではないが、引き受けた限りできるだけ前向きに諸タイトルが散逸しないようにがんばって行きたいと考えている。


                                                                          以上/安田清彦